「材料アリストパネース」新野守広劇評

 シアターアーツ2011秋号 新野守広





まだ余震が続いていた三月下旬、最近ほとんど上演される機会のないギリシャ喜劇を見た。ラドママプロデュース公演『材料アリストパネース』(原作=アリストパネース『アカルナイの人々』『リューシストラテー』『雲』より/テクスト・構成・演出=杉浦千鶴子/Free Spaceカンバス/3月27日)である。
 ギリシャ古典劇というと、一般には悲劇を指す。『メディア』や『オイディプス王』のように神々と人間が混然一体となった世界を描くギリシャ悲劇は、壮麗で重厚な舞台を作りやすいためか、日本でも毎年のように上演され親しまれてきた。ところがギリシャ喜劇はほとんど上演されない。その理由は、喜劇の主題である政治風刺と露骨な下ネタにあるだろう。たとえば喜劇作家アリストパネースの真骨頂は、紀元前のアテネ社会を牛耳る政治家の私利私欲を告発するところにある。しかも当時、劇中で告発された政治家本人が劇場の特等席で観劇していた。劇場に詰めかけた観客は、劇作家と政治家の対決を固唾を飲んで見守ったにちがいない。つまり喜劇は、きわめて過激な政治批判であった。しか し当時の事情を知らない現代の観客にとっては、劇中で誰が当てこすられているのか実感することすらむずかしい。しかも下品としか思えない下ネタが溢れており、笑おうにも笑えない。壮麗で重厚な「古典」のイメージとは正反対なのだ。
 ところが『材料アリストパネース』の舞台は違った。三月十一日の震災から一ヵ月も経過していない異様な状況が、二千年の懸隔を一気に消し去ったのである。まず『アカルナイの人々』が上演されたが、戦争に終止符を打てないアテネ民会の腐敗をディカイオポリス(山田零)が告発する場面は、震災の被災者と原発事故の被害者への対応策が打ち出せないまま政争に明け暮れる現代日本の衆参両議院を描いているように思えた。彼は公費で私腹を肥やす外交使節団に憤り、民会を見限って、スパルタと個人的に平和条約を結ぶ。この抜け駆けに怒ったアテネ市民は彼をリンチにかけ、彼も対抗して人質を取って立てこもるが、このような抗争はこれから私たちが経験するであろう反原発運動への弾圧や 世論の分裂を戯画的に先取りしているかもしれない。このように紀元前のアテネ社会のゴタゴタが、日本の政治の機能不全と重なるのだ。特に私たちは、ペルシャとの戦争に勝利して国力を増した都市国家アテネが民主制の崩壊とともに停滞したことを知っているだけに、古代アテネと現代日本が相似に見える。戦後の高度成長を経て停滞期に入った日本がついに没落した瞬間を体験しているような生々しい実感があったのは、そのためだろう。
 俳優たちは何役も兼ね、大げさな身振りとわざとらしい演技で舞台の戯画性を高める。小さな小屋に似た簡素な装置や周囲の壁には、放射能関連施設を思わせる白いビニルシートが張られている。舞台と現実をつなぐ工夫は、映像の使用にも表れている。米軍厚木基地を背景に撮られた映像の中で日米関係が「日米同盟」に言いかえられた経過をレポートするのは、『アカルナイの人々』に登場する告訴常習者(杉浦千鶴子)である。ホームレスを締め出して改修工事を進める渋谷宮下公園を背景に俳優一人一人のインタビュー映像が流されるが、そこには実際のホームレスも映し出される。役を演じない俳優がホームレスのように舞台に居続けることと合わせて、ギリシャ喜劇の各場面を「材料」として 現代の日常と並置した効果は興味深かった。