『しあわせな日々』竹重伸一劇評

「ウィリー、ウィリー」竹重伸一
Corpus no.2」より



幕開けと共に、この芝居を観ることは、観客に、他の演劇とは根本的に違う意識の集中の仕方を要求することが、たちどころに理解されるだろう。通常の観劇においては、我々は、舞台が始まるや否や、俳優の喋り出すせりふに意識を集中させ、言葉の作り出す物語や、観念やイメージの連鎖の海に彷徨うことになる。そこでは、俳優の肉体や身振りは、あくまでも言葉に従属していて、せりふの補助機能として、テキストに彩を添える役目を果たすに過ぎない。どんなに言葉の世界で、異次元の世界に飛翔し得たとしても、眼前にある俳優の肉体が、テキストから離れて独自の存在を主張してくることはない。
 ストアハウスの狭い空間に、中央が小高くなった白い円丘が盛られており、ちょうどその真ん中に、黒のシースルーを身に付けた、ウィニー役の杉浦千鶴子が、腰の上まで埋まって眠っている。けたたましいベルの音と共に、目を覚ました彼女はブツブツ喋りながら、朝のお祈りをし、歯を磨き出すのであるが、せりふを飛び越えて、チューブから歯磨きを出し、歯を剥き出しにしてゴシゴシ磨く彼女の身体の細部の表情に、すっと意識が寄り添っている自分に驚く。身体の動きを限定し、舞台装置の一部として俳優を嵌め込むという、身体と空間の抽象化、圧縮化を図ることで、逆説的に身体の物質的な存在感を浮かび上がらせることに成功している。事実、この戯曲のテキストを読むと、膨大な(間 。)の指定と共に、ウィニーとウィリーの細かい行為のト書きが、せりふと同等の分量を占め、ベケットが俳優の身体に対する強い興味からこの戯曲を書いたことがわかる。
 更に、第二幕ではウィニーは首まで埋もれて、動かせるのは顔だけになる。人間のサイズは小さく小さくなっていくが、その存在感は反比例して大きくなるという逆説がここでは成立している。それにしても、ラストの物言わぬウィリー(植田裕一)との絡みの、悲痛かつ美しいこと!何度でもトーンを変えてリフレインされるウィリー、ウィリーというウィニーの呼びかける声が固有の生命を持って、私の心に生き続けている。
 ベケットの演劇に対する関心は、テキストレベルから、徐々に、舞台空間とそこでの俳優の身体の在り方に移っていったように思える。彼には、近代リアリズム劇が人間を対社会的な存在としてしか扱っていないことへの批判があり、そこに垂直の軸、重力の魔に蝕まれる身体とそれに抵抗して超越的なものを希求するという精神という新たなドラマを提示したのだと思う。『ゴドー』でも、身体は抽象化されつつあったが、この作品では、彼の身体観がよりはっきりとした形で示されている。
 杉浦の演技は、ウィニー役に要求される色気、愛嬌、声を持ち合わせていたと思うが、膨大な(間。)の深みを表現するまでには至らなかったのが残念だ。植田には、寡黙な役だけに、もう少し肉体的な存在感が欲しい。全体に、二人の間にある絶対的な距離が、もっと浮かび上がってくるべきだったのではないか。後、背景の銀色の壁に投影された映像は、月や太陽や地球、しまいには現代史の点描など、明らかに意味過剰で、この作品の抽象的な広がりを狭く限定してしまっていた。