ノイズに満ちた「古典の読み直し」内野儀


芸術新潮2006年6月号より
ラドママプロデュース『欲望という名の電車』



『欲望という名の電車』
「作」テネシー・ウィリアムズ
「翻訳」小田島雄志
「脚色・構成・演出」ノゾエ征爾
◆3月18日→19日 愛知豊橋市民文化会館ホール
◆3月24日→26日 東京・吉祥寺シアター

アメリカの劇作家テネシー・ウィリアムズの『欲望という名の電車』は、一九四七年初演、五一年に映画化されたアメリカ戯曲史上、名作中の名作である。日本でも本国以上といってよい人気を誇り、主人公ブランチを杉村春子が演じた舞台は今や伝説的で、それ以外でも実に頻繁に上演されてきた。つまりこの作品については、よい意味でも悪い意味でも、「いかにもそれらしいお芝居」の典型というイメージが定着しているのである。
 同性愛の夫の自殺というトラウマを抱え、何もかも失ってニューオリンズに住む妹ステラの元に避難してきたブランチ。しかしそこは安住の地ではなく、彼女の複雑な性格を理解できない妹の夫スタンリーとことごとく対立することになる。スタンリーはブランチの 過去を暴き、仲間のミッチとの恋路を邪魔するばかりか、ついには彼女をレイプしてしまう。こうして狂気に陥ったブランチは精神病院に送られることになる……。
 このよく知られた物語を、今回はいわゆる小劇場系の俳優たちが演じた。とはいえ劇団公演ではなく、かつて早稲田小劇場(現SCOT)で活躍した杉浦千鶴子が主宰するラドママプロデュース公演という形で、彼女自身がブランチを演じたのである。その他、燐光群の舞台で知られる下総源太朗がスタンリー、元MODEの久保酎吉がミッチ、毛皮族の町田マリーがステラといったほとんどありえないキャスティングで、演出(脚色・構成)は「はえぎわ」という一風変わった名前の劇団を主宰するノゾエ征爾が担当した。
 ノゾエは原作テクストに丹念 に手をいれた。物語の骨格を変えてしまうとか、「演出家の時代」のヨーロッパの演出家のように、大胆かつあからさまに「古典の読み直し」を試みるというものでもない。基本的には原作通りに台詞も物語も使われる。ただし、「いかにもお芝居らしい」ベタついた台詞は、一発ギャグや自己ツッコミ等の小劇場演劇的な「小ネタ」やテクストの変種でできるだけ乾かし、一九四〇年代アメリカ南部という地理的歴史的設定は「わかりにくい」として避けられて今の日本の観客にも通じるように、細部にわたってかなり変更が加えられている。
 このテクスト編集がこの舞台の生命線である。評価もそこが分岐点となる。「こんな恥ずかしい台詞は言えない」、だから「言うならこう言うだろう」的な変更、即ち 、同時代の日本を生きるノゾエのきわめて感覚的な―それを演劇的感性と呼んでもよい―脚色・構成とその結果もたらされるノイズ感がすべてなのである。
 不思議なことに、原作テクストがないがしろにされたという感触は私にはほとんど残らなかった。むしろ若手小劇場の作家が、きわめて真摯に、また正当な(=「わからないことはわからない!」)距離を可視化しつつ、「名作」に取り組んだという爽快さが印象的だったのである。「ほとんど」と書いたのは、幕切れ近く、病院に連れて行かれる前、スタンリーと迎えの看護婦をブランチが文字通り「ボコボコにする」という原作にない斬新かつ説得力のある場面が挿入されていたからだ。だから迎えに来た医者は、「足長おじさん」(ノゾエ自身が演じ た)で、ブランチは「美しく無垢な少女」という幻想に主体的に自身を閉じこめるという幕切れになっていた。その点においてこの舞台は、日本の演劇界ではほとんどお目にかかることのない、ノイズに満ちた「古典の読み直し」上演という性格も孕むことになったのである。